おばあの半生記-第二部

第二部:尋常小学校を卒業してから…青春時代?

ここから本人の言葉できるだけそのままです。

おばあちゃんは高等尋常小学校(今の中学校)まで行きたかったけど(申し込みまで出していた)家の事情で行けなかった。  尋常小学校を卒業してからしばらく家の手伝いをして、それから、那覇に出、F井のおばちゃん(おばちゃんも同じ島出身で、おばあちゃんの鳩子)の家族が那覇に住んでたのでそこを頼っていった。そしたらすぐ、大阪のお父さんからお金が送られてきたので、これは「大阪に来い」という意味やなと思ったから、船に乗って大阪行った。後から聞いたらその金は「島に帰れ」という意味で送ったらしい。金だけ送ってんねんからそんなん知るかいな。

船は一週間かかって神戸に着く。雑魚寝の二等船室やけど食事も客室まで持ってきてくれる今考えたら贅沢な旅行やった。と言いたいところやが、乗ったが最後、船酔いで寝たきり状態になったので、一週間何も食べんかった。食べんでも死なんもんやなあ。

さて、神戸に着いた。誰が迎えにきたか覚えてないけど、お父さんやったかな、とにかく親父しかないやろな。(大阪市港区)市岡の公設市場の近く、市場通りの一丁目9番地にあるお父さんの家に行った。お父さんの家には1階に2号さんとその連れ子、とわたし、おばあちゃんが寝て、2階には2号さんの姉と妹二人(このうちの一人はえらいスレた女やった)が寝泊りしとった。この2号さんは腹立つおばはんやったのでいつも「おばはん」と呼ぶようにしていた。そんなんやからおばはんも可愛くなかったんやろ、自分の娘にはええ服着せて、おばあちゃんには「じんけんのバリバリ(何かよー分からんけど安物らしい)」を着せよった。お父さんはハツリの仕事をして良く働いてはいたけど、「お母さんと離婚したろか」とか意地悪なことばかり言っていた。「やれるもんやったらやってみー」とよー口答えしたなー。そんなんやったから気分悪いし「わしゃ働かんからな、食いつぶしたる。」と息巻いて、一年ぐらいはそこに居候してやった。何をしとったかというと、公園が近かったからいつも公園行って遊んどった。十四、五やからまだ子供と一緒や。毎日ブランコこいで、どこまで高く行けるかチャレンジしとった。ある日絶好調で「よっしゃー、今日はいけんでー」と張り切ってこいだらブランコの上をはるかに越えてしまい、そのまままっ逆さまに転落した。右の頬骨打ってえらい腫れた。不幸中の幸いで骨は折れんかったけど痛いの何の、今だにその時の後が残ってる。家帰ったらお父さんはえらい怒ったけど、さすがに娘は可愛いんやな、熱いゆで卵を痣になったところにあててくれた。それで治ったからえらいもんやな。ヘルペスもそれで治らんかな(今ヘルペスを患っている)。

関西弁はこの頃マスターした。何せ、島の言葉を使ったら怒られたからな。その家で一年遊んでから、天六の方に住んでる親戚のうちにやっかいになった。そこは子供が生まれるとこで、ちょうど家の手伝いを必要としてたから重宝がられた。一年ぐらいそこにもおったかな。そこを出て次は工場に働きに行った。(そこを出てって言うのは間違い)そこから本庄の反物を作ってる工場に通った。半年ぐらいおったかな。反物に柄つける工場や。子供やおもて待遇悪いから止めたった。それから今度は市岡の油会社にいた。頭につける油や。油瓶に詰めたりしとった。ただしとったらええんやちゅう感じやな。

お父さんは港区市場通り一丁目9番に最初カフェーもっとったけど、そのうちおばはんが尼の難波に店もって、親父が本店見て、昼間はハツリに行ってるもんやから、無理して結核なってもうて尼にちゃー行き(※1)するようになって、本店のコックをやれゆわれた。17,8の頃やな。 ある日、 ケーキ屋の兄ちゃんが、コーヒー飲みにきた。たまには店で見かける兄ちゃんや。お姉ちゃんら休憩でおらんかったからウチが出した。兄ちゃん帰るとき、外でたらケーキの箱が、サイドカーにいっぱい積んだ自転車があった。それでケーキ屋って分かったんやな。店にケーキ置きたかったし「ちょっとしか取れへんけどいれてくれへんか?」って聞いたら大丈夫やゆーから、それから 毎日入れてもらうようになった。兄ちゃんの通り道やったからな。仲良くなった。兄ちゃんは「ちびの癖によう働くな。」ってウチのこと思とったみたいで、このころから嫁はんにしようと考えとったみたいやな。

ケーキ屋の兄ちゃんはそのうち「一緒になってくれへんか?なってくれへんのやったら俺は南米に移住する。」 とか言うようになった。ちょっと焦ったな。やっぱりもう好きになっとったんやろな。 <続く>


※1ウチナーグチで「行きっぱなし」の意。「ちゃー〜する」は「〜し続ける」。